築城の名手 藤堂高虎

津城(三重県)にある藤堂高虎像
有子山城・大和郡山城・赤木城・宇和島城・大洲城・膳所城・今治城・伏見城・江戸城・津城・伊賀上野城・篠山城・丹波亀山城・和歌山城・二条城・大坂城・淀城……これらの城に関わった武将は、加藤清正と並んで築城の名手と名高い「藤堂高虎(とうどう たかとら)」です。
高虎は、近江国犬上郡藤堂村、現在の滋賀県犬上郡甲良町在士の土豪・藤堂虎高の次男として生まれます。幼名は「与吉」。兄の高則が戦死したことで、藤堂家の跡取りとなりました。成長した高虎は、身長6尺2寸(約190cm)という恵まれた体格のたくましい武者になります。浅井長政・阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄・羽柴秀長・豊臣秀吉・徳川家康と、7人の主君に仕え、75歳の生涯を駆け抜けます。私は、高虎の生き様が大好きです。なぜなら、自分の能力と可能性を信じて、その力を最大限に発揮できるよう精進し続けた、努力の人だからです。
もともと高虎は足軽の身分でした。それが江戸幕府では、外様大名でもトップクラスの32万石の大大名に出世します。その大躍進の要因はどこにあったのでしょう? 高虎の生涯を顧みると、現在の私たちの仕事術や処世術にも通じるものがあるのです。
若かりし頃の高虎は、お家再興のため野心に溢れた若武者だったようです。世間知らずと言えばそれまでですが、自分の能力を信じてもっと上にもっと上にと、並外れた向上心を発揮します。そのためか仲間と喧嘩して切りつけたり、自身の能力を正しく評価できない上司の元から逃げ出したりと、自由奔放な生き様を見せてくれます。

伊賀上野城(三重県)にある高虎所有と伝わる兜
そんな高虎の人生を劇的に変えるエポックメイキングは、豊臣秀吉の弟・秀長の元に仕えたことでしょう。武士であるなら、武将でありうるなら、まずは戦で強くなければならない。そのために一番槍を目指してハチャメチャに走り回っていた高虎にとって、武功はそれほどにも関わらず、上からも下からも信頼され必要とされる秀長の存在は、当初不思議な存在に映ったことでしょう。力とは、武力だけでなく、特出する何かを持つことだと実感した日々だったかもしれません。
秀長のもとで学んだ高虎は、城を築くという「技術」という力を知るようになります。高虎の生涯を描いた火坂雅志氏著の『虎の城』によると、安土城築城の際にも高虎は秀長に伴って作業に関わったとされています。近世城郭の城づくりの原点を目の当たりにした高虎は、その後の築城技術に大革命を与える存在になりました。
まず、層塔型の天守構造の築城です。それまでの望楼型天守は築城する土地の形や広さに構造が左右されるつくりをしていました。そのため、適した木材の調達に時間がかかるデメリットがあります。それを柱の長さを規格化することで、木材の調達もしやすく工期を短縮できるという新しい構造をつくり出します。それが層塔型天守です。史上初の層塔型天守は、高虎自身の城である今治城の天守と伝わります。
そして、石垣の築城技術です。隅石部分の算木積み構造が確立したことで、高さのある石垣を築くことが可能になりました。さらに高虎独自の直線的な石垣構造が、積みやすく強固なつくりを生み出します。

大阪城に次ぐ伊賀上野城の高石垣
これらの技術に支えられて実現したのが、徳川家康の「天下普請」の城づくりによる統治体制の強化でしょう。天下普請とは、徳川幕府が全国の大名たちに命令し行わせた土木工事のこと。各大名には担当する工事エリア(丁場)が幕府から割り振られ、分担して工事を請け負います。
戦上手の高虎だからこそ、城のどこを守り、どこを強化するべきか、どこが盲点になるかを知り尽くしていました。そのため、共同作業の天下普請で工事がしやすいシンプルな造りながらも、強固な守りの城が完成したのです。
高虎が75歳で亡くなったとき、高虎の亡骸を清めた者の見聞として「ご遺骸には、すきまもないほどの傷があった。弾傷、槍傷などがあちこちにあり、右手の薬指と小指は切れて爪がなく、左手の中指も一寸ほど短くなっている。右足の親指も爪がなく、たいへんなご苦労を重ねてこられたのであろうと察せられた」と残されています。まさに満身創痍の姿だったのです。
何か一つではなく、何かを掛け合わせることによってオリジナルはつくられます。高虎は戦の武勇だけを極めるのではなく、さらに築城技術を学び取り自分のものにすることで、幕末まで続く藤堂家の礎を築くことができました。自身が体現したことを次世代に伝えることこそが、先人たるべき人の道なのではないでしょうか。 そんな知恵をさずけてくれる高虎ゆかりの「藤まつり」が、生誕地の滋賀県甲良町で行われます。今なお愛され続ける高虎の息吹に、会いに行ってみてはいかがでしょう。毎年5月5日、在士八幡神社でお待ちしております。