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菊池 和雄

「祖国根元在国史令明」

大東亜戦争(第二次世界大戦)から、日本が奪われ続けてきたもの。
このチャンネルでは筆者が現代の日本人に警鐘を鳴らすため、歴史に埋もれている事柄から読み取ることのできる諸外国の動向、
現代の日本人に必要なものとはについて発信していきます。

疎開 その2

 アメリカ合衆国の第32代大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(以下FDRと略す)は、1933年から1945年(昭和20年)4月(12日に死亡)までの12年間四期を、大統領として過ごしましたが、有名な1941年12月8日(現地時間)の「屈辱の日」演説は、待ち焦がれた日本民族粛清の開始宣言であったとする評価は、今や少数ではありません。そして、その執念の一端は一期目の就任式(3月)すら終えていない時にでさえ、早々と見出すことができるのです。

 1933年1月、スティムソン・ドクトリンを大統領として支持する表明を行ったことに対し、R・モーレイとR・タグウェルがFDRを訪ねスティムソン外交の好戦性を説くと、『日本の好戦性を考えれば、戦争は避けられないかもしれない。ならば後回しにするより今戦ったほうがいいのではないか?』と平然と応え、更に『私の先祖は中国貿易に従事したことがある。そんな私が、日本をやっつけようとするスティムソンに同意しないわけがないではないか?』と続けたと云われています。

 中国での権益拡大を目論むアメリカにとって、利害が対立すると解釈していた日本は目の上の瘤のような存在であったでしょうし、帝国主義全盛であった当時の常識からすれば、排除しようとしたのは当然でした。復讐劇「東京裁判」で極刑を言い渡されたのは陸軍軍人のみで、海軍軍人はゼロであったことを思い起こせば、FDRの執念は遺言として脈々と息づいていたと云っても差し支えはないのではないでしょうか?

 一期目就任早々に語ったと云われている「日本脅威論」は、ハーバード大学で知り合った留学生の松方乙訓から聞いた(1902年頃)「日本の百年計画」が発端だとはFDR本人の弁ですが、その根拠は東京裁判でも迷走した「田中上奏文」ではなかったでしょうか?   

 中国との個人的な親交の深さを考えれば、中国から伝来したプロパガンダの偽文書を前面に押し出してプラカードとして掲げるのはリスクが高いことを、臆病との評価の高かったFDRはその感性で嗅ぎつけていたことでしょう。

 実際、海軍次官補時代(1913年~1920年)に「日本脅威論」を語った時にも(松方の)「百年計画」に触れなかったと云うし、スティムソンが陸軍長官に就任する直前、『七年前に初めてお会いした時(1933年1月9日)に「百年計画」について語られたことを覚えておられますか?』と聞くと、FDRはじっくりと頷いたとスティムソン日記に記されていると言われている。

 更に、死に立ち会った従妹のデイジー(マーガレット・サッカレー)が記した日記にこの「百年計画」が登場したのは、1934年1月31日のページであると言う。(「田中上奏文」は1931年の満州事変勃発以降は、日本批判のために中国のみならず、米国のマスコミにまで盛んに撒布された)

 青年・松方が抱いていたのであろう大志の「夢物語」を、支那の排日喧伝文書である「田中上奏文」と置き換えて日本に対する怨念を深め、来るべき「その日」に備えて、入念にそして細心の準備をしていたのであろう。

 1940年10月8日にホワイトハウスの録音機に残された側近との会話で、『おい、ちょっとこれを読んでみろ。UP通信がよこした電報では、“米国はアジアの新時代の到来について認めるべきであり、そのために米軍はパールハーバー、ミッドウェー、ウェーキの基地を引き揚げるべきだ”と云ったそうだ。日本人がわれわれにハワイから出ていけと云ったのは初めてじゃないか?もし日本がちょっとでも妙なことをするようだと、こちらはいつでも引き金を引く覚悟がある』(「テープの背後の物語」)と語ったそうだが、「真珠湾」の14カ月も前であったことに興味が尽きない。

 更にこの頃実際には機能しなかったものゝ、中国国民党軍を支援するとの名目で、アメリカ合衆国義勇軍(AGV)が組織され、米国の対日戦闘部隊「フライング・タイガース」(Flying Tigers)として存在していた。その中心人物を担ったクレア・L・シェンノート大尉が中華民国空軍の訓練教官・顧問として雇われたのは、1937年(昭和12年)5月1日のことで盧溝橋事件の二カ月前であった。

「屈辱の日」(真珠湾攻撃)の一年前(1940年12月10日)、蒋介石の航空機支援要求を真剣に検討していたコーデル・ハル国務長官は、『東京に爆弾を落とさせる方法を考えろ』と財務長官ヘンリー・モーゲンソーに語ったと云われている。(「幻の日本爆撃計画」アラン・アームストロング著)

 フライング・タイガースへの空軍兵士の派遣が、国際法の中立条約に違反することは明白で、この時点で日米は既に開戦状態であったということになる。

 “Remember Pearl Harbor !”と声高に叫ぶ遥か以前から日米は既に交戦状態にあったにも関わらず、FDRは1940年10月30日にボストンで『(わが子を戦場に送ることを心配している)お父さん、お母さん。まったく心配することはありません。前にも何度か約束したことを、もう一度はっきりさせておきます。あなた方のお子さんが、外国での戦争で戦うことは決してありません。何度でも何度でも繰り返して約束致します。(“I shall say it again and again.”)』

更に、(大統領選)投票を二日後に控えた11月3日には『外交方針はヨーロッパの戦争に巻き込まれないことが基本である』とまで述べている。

 そして、あの「屈辱の日」の奇襲攻撃を少なくても半日前には暗号解読を済ませて認知していながら、ハズバンド・E・キンメル提督とウォルター・C・ショート将軍に情報を伝達せず、約3000人以上もの若者たちを死傷させて見殺しにしたのも、日本と日本民族を粛清するという念願と選挙民に訴えてきた公約との矛盾の落差の責を、自ら負わなくて済ませるための丹念にそして注意深く準備された陰謀であったことを、歴史が証明しています。

 キンメル提督とショート将軍は、自分たちの「真珠湾」の責任に関して軍法会議を開くよう要求したが、FDRは承認せず、スケープゴートにされてしまった。軍法会議を開けば、真実が白日の下に晒されるであろうことをFDRが恐れたためであり、姑息さは充分に発揮されていたのです。

『戦争に勝つためなら嘘だってつく』とH・モーゲンソー財務長官に向かって云って憚らなかったFDRのことだから、選挙民と議会を裏切り嘘を撒き散らすことなど朝飯前で、目障りな瘤(日本)を抹消する企みのためなら常識や自制心など一切無視したのか、生来持ち合わせていなかったのかも知れません。

(以下、「疎開 その3」に続きます)